王国ーアンドロメダハイツー
<18冊目>
祖母と二人で暮らしたことがある。二年程。その頃のことをなんとなく思い出す。あの年代を生き抜いた女の人、独特の匂いが「おばあちゃん」からする。
一緒に野草を採りにいったこどもの頃のことを思い出した。青々しい草の匂いと触れると痒くなる夜露の感触。
「これは、守られている女の子の生き方の物語だ。」
自分の立ち位置をここまであっさりと肯定するなんて!と思った。一人で生きてくことこそ自立なんて言ってた自分がアホみたいじゃん!と思った。
実はこの小説を読んだのは母の死後すぐだったので、悲嘆にくれていた私はこの一文に打ちのめされて以降一切読めなくなった。
情けねえなあ。
でもさ、自分が「守られている」ってことを自覚するってとても難しいことだと思う。
少しだけ大人になった今、このハードルの下げっぷりがとても優しくて、ぼんやりとそうか私は「回復の過程」にあるのかと思う。
閑話休題。
めっちゃ時間空いてもうた。
読んでいないわけじゃない。ただそういえば読書感想文とか超絶苦手だった。誰がどんな本を読んで、どんな感想を持とうと勝手じゃないかと思っていた。
ええと。なんでそれやのに。と思うんやけど。自分の偏りを知りたかった。自分が何が嫌いで何を好むか。それを一年かけて知りたかった。そしてそれらの理由を知りたかった。
はい。つまらない話は置いといて。
つらつら書きます。
結局のところ、私は「だから、何?」とつぶやいているこどもに過ぎない。いつまでたっても。
ひかりのまち
<20冊目>
夫と「物語においての救い」について語ったあと。「救いのないのが救いだ」っていう私に夫は得意げに笑って言った。「終わりがないのが終わりだ」
救いがない状況に安堵してしまうのはいつからだろう。どうせ物語なんだもの、もっとひどいこと、もっと堕ちきってしまえばいい。そう思っていた。
今でも思う。
善き人達の善き物語に何の意味があるんだろう。
「生きよ、堕ちよ」って、堕ちきるのも勇気と覚悟がいるっつのな。なんていってる私は本当にあまちゃんなんだと思うよ。
「ひかりのまち」みたいなところに私は今住んでいる。いざとなったら血とか内臓とか全部さらけ出して管に繋がれて死ぬなんてこと、まるで知らないなんて顔して、みんな生きてるようなところに、私は住んでいる。犬が服来て歩いてるのに、重い荷物もったおばあちゃんには知らん顔みたいな。
いけすかないし大嫌いだし未だになじめないけど、でも結局みんなこういうドロドロしたものを隠しているんだって思うとわくわくどきどきする。
Tiny,tiny
<19冊目>
なんてリアルなんだろう!って思ったのはもう23歳の頃でどうにもこうにも「あの頃」には戻れなくて、わんわん泣いた。
それ以来、私にとって大切な一冊。
簡単なことをわざとわかりにくくまわりくどく語っている、そのやり方にぎゅんときた。そうだよね、「あの頃」ってそういうやりかたをしていた。
誰もかれも必死でなのにとんちんかんでまるで生産性がない。忘れたような顔してしれっと生きてる私たちでも。どこかに「あの頃」受けたし、つけた傷もあるのだと思う。
「たぶんまだなにも好きになったことがないんだだから分からないんだそのうち分かるようになるなにかを好きになるよ」
と。
「なんでもいいからそれが破滅でいいから元どおりに戻れないなにかがしたい。世界なんか滅んでしまってかまわない。」
は。
今でも私の胸を締め付ける。